次に町中を観光します。
墓地を出て時間も13時過ぎ。あんまり時間がないので捲きで観光してますw
28人のパンフィロフ戦士公園
第二次世界大戦の際にモスクワの対ドイツ戦線に旧カザフ社会主義共和国から参加して戦死したパンフィロフ将軍と彼が率いた28名の兵士を記念して造られた公園。この敷地の中までは入らなかったのですが、無名戦士を悼んで永遠に消えることのない炎が灯されているようです。他の国でもよくありますが、戦士を悼んで永遠に絶えることのない炎。こういうのを見るととても厳粛な気持ちになりますよね。
それからその隣のゼンコフ教会へ。ここで少しぎょっとする。
というのも、平和の象徴“鳩”がたくさん。個人的に自宅のベランダに鳩が来て困っているのでこの位たくさんいると正直いい気しない、不快ですらある。
とても色彩がかわいいゼンコフ教会。しかし残念なことに修復中。
ところでアルマトイってこんな町
この町の歴史は古く中世にはシルクロードの交易拠点として栄えたものの、13世紀モンゴル帝国に滅ぼされる。その後1730年 アブル・ハイル・ハン率いるカザフの軍隊がジュンガル(モンゴルの部族)を撃破。
1854年シベリア・コサックが天山山脈のふもとに要塞を建設、要塞の名前はヴェールノと名前を変えて初めて地図の載る。
やがて要塞はヴェールヌイ市と名を改め州都となる。地理的にステップ上に位置する立地、当時の不安定な中央アジア情勢のため、ロシア帝国の統治下で秩序が保たれていたヴェールヌイには、多くの民族が移住した。
1880年代のアルマトイは、60年代にロシア人移民が居住する要塞周辺の旧地区、70年代以降に建設された新規の移民の居住地である新ヴェールヌイ区、カザフ族などの非ロシア人がセンターする郊外の地区の3つに分かれていた。その後二度の大地震で町は壊滅するが、人々は町を再建した。2度の大地震の後に、今あるような碁盤目状の市街地が整備され始めた。
第二次世界大戦中は戦火を逃れるために工場や病院、大学、映画撮影所などがヨーロッパ・ロシアから続々と疎開してきた。戦後には日本兵捕虜の収容所が設置され、科学アカデミーや発電所の建設に使役され、市内には日本兵捕虜が葬られた墓地が3か所存在する(そのうちの一つが午前中行ってきた墓地ですね)
戦後はソビエト連邦の中の一国として存在しましたが、1991年に独立。この町が首都となる。しかしその後1997年、時の大統領が首都をアスタナへ移転した。
因みに“アルマトイ”というのはカザフ語でアルマ(алма)は「リンゴ」、アタ(ата)は「父」を意味するため、「リンゴの父」というのが語源らしい。
この日はというかおおむね好天に恵まれ、青空にロシア正教会の屋根が素晴らしく映える。実はこの教会釘一本使っていないそうな。
教会の敷地内。建物の中を覗いてみたら、老人が集って遊んでいた。
旧ソ連の、、、、
とても長閑な日。散歩日和。
こんな餌付けされたリスが生息している。いいもん食べてるのだろうか、これもかなりデカい。
バザールへと行きます。
バザール(らしい)しかしお休みなんだかなんだかあまり人がいなくて、且つどこから入っていいかもわからず
適当にそのへんぶらぶらする。靴下屋さん。
本屋さん
メガタウМегатауというショッピングモールにぶらりと入ってみたら、一応ファッションビルだった。それで、この建物の2Fだか3Fの1フロアすべてがムスリムファッションのお店だった。
こんな感じ。1フロアすべてなので何気に壮観です。
この旅最後のラグマン
まぁここにいる人は殆どムスリムで。このフロアにお約束のウイグルレストランがあったので、食べることにした。本当にラグマンは最高です。写真を見るだけで涎が出そうです。
ラグマンは700テンゲ≒220円。
もちろん手打ち。たまらない。日本人とわかってフォークではなく箸を持ってきてくれた。具は白菜、ピーマン、パプリカ、セロリ、トマト。麺はかなり腰がある。具は大き目。肉は柔らかい。風味はスパイシー。香菜がなくてその代わりにパセリみたいなのがのっていた。あー大満足。
外へ出て、これはケバブ?500テンゲ≒150円
この日、張り切ってスマホの2GIS見ながらバスばっかり乗ってるけど、バス停はこんな感じで時刻表とかなかったりして地名がイマイチわかりにくいのが難
時間ももうあまりなくなって、最後に毎日お世話になったホステル近くのスーパー(interfood)にお土産買いに行く。私はバターが好きで海外で買うと安いから結構買って帰るんですが、種類豊富、しかしマーガリンと混じっているのが多いもよう
最終的にここではこの位購入。チーズ、バター、ビール、ハーブティー、はちみつ。これで1500円位。はちみつが意外と高かった。
あとは空港へ向かうだけ。空港へのバスはたったの46円です(笑)嘘のようですが本当の話(笑)